幸せとは。
こんにちは、りんごです。
今日はちょっとヘビーな内容になると思うので、
引き返すなら「今」です。
先週、親戚の子が亡くなりました。
27歳。
自殺でした。
彼は、私の母の実姉の娘の息子で、
続柄的にはわりと遠い関係(私にとっては従姉妹の息子)ではありますが、
母の実姉がネグレクトで育児をしなかったので、
私の両親が親のような感じで、
従姉妹と私も姉妹のように育ち、
その息子である彼は、生まれる前も生まれた後も、
当時、中高生くらいだった私もオムツを替えたり、公園へ連れて行ったり。
なので、
親戚だけど、弟のような、甥っ子のような存在。
最初に「亡くなった」と連絡が来た時は、一瞬、誰のことを言ってるのかわからなくて。
仕事中だったけど、
「あの子バイクに乗るから事故?え?病気?」って色々考えて、その日は仕事にならなかった。
仕事が終わって、家に戻ったころに母から連絡があり、
「自殺だって。首吊ったんだって」
と言われて、まさに絶句・・・でした。
翌日、夕方から通夜、翌々日に告別式が決まり、
私は受付を頼まれたので、翌日の昼過ぎには斎場へ行きました。
到着したころにちょうど湯かんをしていて、
悲しみに暮れる控え室。
その隅には無邪気に遊ぶ2歳の愛娘。
彼は数年前に鬱で休職していた時期があり、
少し前に復帰したという話を聞いて、顔を見に彼の家へ遊びに行ったことがありました。
そこには、小さい頃から変わらない彼の笑顔があった。
鬱の完治は難しいと聞くけど、
良くなったんだなって、私は思ってしまった。
4年前に結婚して、
2年前に子供が生まれて、
昨年家も買って。
子供のこともとても可愛がっていたし、積極的に育児もしている感じだった。
きっと、子供の存在が、彼を良い方へ引っ張ってくれたんだなって、
私は思ってしまった。
喪主は奥さん。
とはいえ、
第一発見者である奥さんは憔悴しきっていて、
従姉妹が主に葬儀の段取りや打ち合わせに追われていた。
息子を送る立場になってしまった従姉妹も、つらいに決まってる。
でも、
悲しむ時間もないほどやらなきゃいけないことが多くて、
逆に今はそれがいいのかもしれない、とも思った。
慌しく通夜の準備をして、
コロナ渦であるにもかかわらず、
会社関係、友人、高校の恩師、たくさんの人たちが参列してくれた。
みんなが悲しみに暮れている。
受付でその光景を眺めながら、
こんなにたくさんの人を泣かせて、なにやってんだよ。
こんなに小さな子供と奥さんを残して・・・
なんで・・・なんでよ・・・
そればかりが私の中でグルグルしていた。
鬱が再発して、衝動的に逝ってしまったんだろうか。
だとしたら、今ごろ後悔してるのかな。
自ら命を絶つ前に、他に方法はなかったんだろうか。
仕事やめる選択肢はなかったのかな。
なんかいっぱい考えたけど、
その私の考えは一方通行で、それを伝える相手はもういない。
通夜後、
ようやく少し時間ができて、
従姉妹とも話すことができた。
数日前から様子がおかしくて、心配だったから日曜日に会う約束をしていたこと。
自殺した当日は仕事を休んで、昼間に少し離れたコンビニへ自分でロープを買いに行っていたこと。
携帯で自殺の仕方を検索していたこと。
そして、
奥さんのお腹に2人目がいること。
衝動的ではなく、
計画的だった。
あんなに可愛がってた子供がいても、
2人目が生まれてくるのがわかっていても、
それでも思い止まれないほど、
あなたは、生きてることが辛かったんだね。
遺された人たちのことを考えると、
決してこの選択が正しかったとは言えないけど、
あの子にとっては、この選択で良かったのかもしれない。
あの子の苦しみや辛さは、あの子が1人でしか抱えられなかったけど、
遺された人たちの悲しみや苦しみは、みんなで分け合える。
彼の死によって残った心の傷は、きっと消えることはないけど、
悲しみの感情は、少なからず時間が解決してくれる。
まだ27歳。
でも、
あの子はその27年間を精一杯生きたのかもしれない。
これでようやく、あの子は、
苦しみからも、
悲しみからも、
いろんなしがらみからも開放されて、
楽になれたのかもしれない。
あの子を空に送ったあの日から、空を見上げて毎日思うよ。
楽になりましたか?
いま、幸せですか? って。
お疲れ様だったね。
ちょっとゆっくり休みなよ。
こっちのことはいいからさ。
なんか、
私の中で、彼に伝えられなかった気持ちがずっと消化できなくて。
いまさら伝える術はもうないけれど、
なんかどこかに残したくて、
ここを借りました。
20年前、
突然父を亡くして、
どれだけ泣いても、涙は枯れないことや、
どれだけ尽くしたとしても、遺された者は後悔すること。
自分はこんなに悲しいのに、苦しいのに、つらいのに、
周りは何事もなかったかのように当たり前に時間が流れていて、
自分だけ取り残されてしまっているような感覚。
今まで当たり前のようにそこにいた人や、
当たり前のようにあった生活や会話が、
急になくなった喪失感。
「死」というものは、遠いようですぐ隣にあるということを、改めて感じた。
「当たり前の毎日」なんてないということを、改めて思った。
ここまで読んでただいた方、
私の消化不良にお付き合いいただいて、ありがとうございました。
私はもう少しだけ、
毎日の中で彼に語りかけて過ごしたいと思います。